『女』

映画 女 日本映画
画像はイメージ

オールロケ、演者はほぼ2人だけの実験作
デーモン小澤栄太郎の洗脳から抜け出せるか 水戸光子
映像の魔術師、木下恵介を感じよ!

 以前、木下恵介監督生誕100年のイベントで、お寺の境内!で上映会があった。その作品は「野菊の如き君なりき」。とにかく映像が美しかったが、これを言葉で説明するのが難しい。言葉を積み重ねて積み重ねて本当にその真意が伝わるのか、と考えさせる監督だ。迷ったら観よ、感じよ。

 1948年松竹 監督 木下恵介
「ダンサーの敏子は、恋人でもあるやくざ稼業の正に無理やり箱根へと連れていかされる。どうやら正は罪を犯したようなのだが、そんな彼から敏子はなかなか逃れられず……。」(松竹シネマクラシック)
 敏子:水戸光子、正:小澤栄太郎のほぼ二人芝居で話は進む。身を持ち崩され金も搾り取られた敏子は甲斐無しの正の逃避行に付き合わされるハメになる。
登場人物は限られかつ全編オールロケ。「予算の乏しい戦後だけに」という解説もあるが、「大曽根家の朝」「お嬢さん乾杯」の間の時期で飛ぶ鳥を落とす勢いの松竹のホープ、木下恵介に予算を渋ることはあるまい。本作撮影の楠田浩之(義弟)の証言「誰もやったことのないことをやるのが恵介さんは好き」の具現化、とみるのが穏当であろう。予算が掛からなければ企画も通しやすかったという側面はあるかも。
 筋書きとしては、旧弊に縛られる敏子がある瞬間目覚め自我を取り戻す、という戦後民主主義的女性の解放というともするとお堅いテーマとなりがちなものだが、木下監督の手にかかると映像エンターテインメントに仕上がるから不思議。東京の都会の片隅で敏子は「ヒモ」の正のために何のためらいもなく体を張って稼いできた。しかし図らずも旅に出た田舎町、大きく深呼吸して背伸びをし草原を歩き、牛の鳴き声を聞き、小学校の子供たちの歌声を聴き(それは敏子の原風景だったかもしれない)、2人だけの閉鎖的な東京の空間からほとんど忘れかけていた広々とした自然の中へ解き放たれ、不意に目覚める。なぜこんな甲斐性のない男に囚われなければならないのか、と。俺と一緒でなければお前は生きていけない、と言い含める男の洗脳からの解放だ。所詮この男にとって女は愛情の対象でなく「金ずる」でしかないと気づく。こうした登場人物の心情の変化をさりげない風景のショットを紡ぐとこで表現する木下恵介の手腕と才覚。
 
 これまでの洗脳が解けかけた敏子だったが、滞在先の熱海の温泉街と思しき旅館で火事が起きる。野次馬、逃げ惑う人々、消防団員が行き交い、けたたましい消防車のサイレンが鳴り響き騒然、混沌とする中、このパニックに乗じて小賢しい男はもう一度女を密室空間に誘い洗脳を試みる。逃げ惑う周囲をよそに、二人だけの心理的に隔絶された空間。群衆の中の孤独。火事とは関係なしに追う男と逃げる女をカメラが執拗に追い回す印象的なシーンが続く。しかし時すでに遅し。強い意志を持った敏子が元に戻ることはない。むしろこのときに正の取った行動が、敏子の確信をさらに強固なものにする。
 戦前を引きずった感強い水戸光子は適役。列車から飛び降りたり、群衆の中で転けたり、火事現場でずぶ濡れとまさに体当たり。木下監督、女優には冷たいの? 小澤栄太郎は狡猾で口だけ達者な気の弱いいかにもなサイコというより悪魔的気質のヒモ男を熱演。劇中、バックダンサー敏子の舞台でルンバ調の主題歌を歌うのは後の織井茂子。後年の木下恵介の代表作「君の名は」の主題歌を歌った人。
 
 田舎道を歩くショット、その歩調が近所の小学校の体操のリズムと自然と合っていったり、とやはり言葉では説明しづらいのだが映像で観るとその面白味が理解していただけるかと。こうした映像表現の積み重ねが木下作品の独自性、存在感。映画監督を目指す人はまず木下作品を観よ、とよく言われるらしいがわかる気がする。とはいえ模範解答どころではない完成度。感じ入るものが必ずあるはず。

(星4.0)

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