天地真理よ永遠なれ! 監督前田陽一の良心作
今回はアイドル映画といきましょう。
1972年松竹 監督 前田陽一
「家出した一人の娘が、ダルマ船にまぎれ込んで来たためにまき起こる騒動を、歌と笑いで描いたストーリー。」(松竹HP)本作、家出娘を演じた当代のスーパーアイドル天地真理による天地真理(以下真理ちゃん)のための映画。言い換えると表題曲をはじめ、折に触れて(ほとんどが進行と全く関係ないタイミングで)いきなり歌いだす真理ちゃん印の歌謡映画。「真理ちゃん自転車(ドレミ真理ちゃん)」は近所の子が乗っていたのをよく見たし、テレビでは「とび出せ真理ちゃん」、なんとなく覚えているという私世代でも「さよならーのー言葉さーえー言えなかったのー(水色の恋)」と口ずさめるくらい、真理ちゃんは時代を席巻したブームであった。子どもの日常生活にも浸透していたのです。
その可憐な真理ちゃんに花?を添えるのは、GSのスーパースターが解散後、さてどうしようの時期のショーケン(萩原健一)とジュリー(沢田研二)と今となっては豪華布陣のふたり。特にジュリーは後半のストーリーにも関わってくるキーマンだが、この頃は生硬な演技でなんとも新鮮。
物語は白雪姫(真理ちゃん。高台に住むお金持ちの娘。家出して「ダルマ船」で暮らすことに)と7人のこびと(なべおさみら猥雑な空間「ダルマ船」に住まう困窮した男たち)に見立てた構図をもとに進行する。富める者と貧しい者の二項対立の図式だが、脚本(田波靖男・馬嶋満)も含め監督はどちらか一方に阿ることなく、どちらかというと冷めた目で、あくまで俯瞰的な視点を持ち続け、かつ明朗なアイドル映画として仕立てる(ねばならない)この監督の手腕たるやさすが。そこで特筆すべきは本作における、「ダルマ船」の住人の描き方。確かに臑に傷持つ時代に取り残されたような彼らはお金や財産、社会的地位には縁がなさそうだが、そうした状況を悲壮感を持って描かず、ことさら美化もせず、生身の人間として生き生きと活動するキャラクターと捉える。最初は「高台」の真理ちゃんの誘拐を企てるが実行に移せない、弱気というより心根は優しい善良な人たち。「天国と地獄」の犯人のように「高台」を妬んだりもしない。時にはその姿は滑稽で笑いを誘うが、ドジ踏んだのをバカにした笑いでなく照れ笑いの笑い。(谷村昌彦の娘の訪問のエピソードに顕著)
前田監督作品にはこうした弱者に対する慈しみ(であり何もにも縛られない人たちに対する憧憬の念か)を感じるものが多い。前田監督作品の不朽の傑作「にっぽんぱらだいす」の不幸な娘、香山美子のラストシーンは悲しみと諦観の浄化であるし(と見た)。真理ちゃんの継母を演じたアバズレ役日色ともゑ(「ダルマ船」と「高台」の橋渡し。真理ちゃんより先に2点を行き来していた先輩。だから気が合う。)が出色。真理ちゃんはこの先輩に刺激を受け、2点を行き来しながらダルマ船に移ってから色々な経験を積み、社会を知り、自己中心でなく俯瞰的・客観的な見方ができる大人になっていく成長物語にもなっている。
天地真理の主役芝居をしっかり観たのは初めてだったが、明るい中にも憂いのある表情、垣間見せるふとした仕草など、なぜか惹かれる。それがスターのなせる技か。昭和を代表する不世出のスーパーアイドル、「天地真理」の最も輝いていた時代がここにある、という言葉に説得力を持たせる映画である。(星4.0)

