十七代目 中村勘三郎主演の異色作。リアリズムを凌駕する作家の自我
ついていけるか行けないかは、あなた次第
言葉以上に「絵」で魅せる木下恵介作品を噛み締めて味わう
本作は木下惠介監督の名作のひとつ「『楢山節考』を観て感銘を受けた十七代目・中村勘三郎が木下惠介監督と仕事がしたいとラブ・コールをかけ、その意を受けて木下監督が彼を想定して脚本を執筆、演出にあたった」(松竹シネマクラシック)という。十七代目・中村勘三郎、歌舞伎以外では後年はホームドラマの父親・おじいちゃん役で時々お見かけしたが、この時代の現代劇は珍しい。
1959年松竹 監督 木下恵介
「ひと夏の間、湘南のマイホームを避暑用に貸すことにした佐藤家の妻・保子は実家へ戻り、そこで謎の中年男・竹村に出会う。一方、その町はヤクザが闊歩し始めていた……。 」(松竹シネマクラシック)中村勘三郎は中年男・竹村。陸大卒の元軍人。隊員に出撃を命じ自分だけ生き残り戦犯として裁かれることもなかった自分を責め続け、軽井沢の隠居所住まいで幼ない娘の成長を唯一の楽しみにしている。
演者は竹村(勘三郎)、保子(久我美子)をはじめみな熱演で見応えあり。隅々にまで行き届いた配役で、特に佐田啓二、三國連太郎、佐野周二はワンシーンか数シーン程度の登場だが木下組のチームプレイに貢献してハーモニーが破綻しないのはそのためかと。なのだがやはりどうしても筋書きに引っかかってしまう。
生真面目な竹村は正義の塊でもある。街にヤクザが進出し狼藉を働いているのが許せない。曰く、「ヤクザは人間の社会に生きている権利はない。片っ端から監獄へぶち込んでやりたい、虫ケラ同然、人間でないものに人間の権利があるのがおかしい」と。木下監督後年の作品「衝動殺人息子よ」の父(若山富三郎)の発想にもつながる、そうした義憤が最後の行動に帰着するのだが、その思考に「乗れるか」「乗れぬか」が本作に満足感を得られるかの分かれ道。
そのヤクザどもの所業といっても、タクシーを蹴っ飛ばしたり(運転手は佐田啓二)、女の子に襲い掛かろうとしたり(未遂)、若者の小遣い銭をカツアゲする程度。殺人、地上げ、人身売買、覚醒剤、密輸といった凶悪犯罪にも無縁な軽犯罪。なので特段関わりのない市井の人がヤクザに対し、「死」という制裁を加えることに道理を与えるのはさすがに無理筋で、観客からすると絵空事に見えてしまう。
でも竹村は一線を越えたのである。直前に娘を病で失う。もうこの世に未練はない、戦争時の贖罪の潮時か。なので竹村の行為はある種娘の後を追った自死であり、可哀想なヤクザはその道連れ。勘三郎の相手に襲いかかるときの所作は歌舞伎の一場面のように狂気を孕んだ美しさ、まさに道行。なのだがやはり「乗れない」私がいる。作家木下恵介の主体性が強く出過ぎてしまった、「自我」の表現にこだわりすきたのでは、と感じてしまう。観客は置き去り。勘三郎の「当てがき」がうまく機能していない。
そうは言ってもやはり木下作品、言葉以上に絵で魅せる。舞台は緑深き軽井沢。浅間山の麓を突き進む蒸気機関車。保子が汽車を待つときはなぜかいつももの寂しい中軽井沢のホーム。竹村と保子が並んで歩く林間の小径。竹村が保子や町の青年(小坂一也)に語りかける小川のほとりの木陰。そしてほぼワンショットで捉えた林の中での竹村のラストの刃傷沙汰。また保子夫婦が住まう神奈川・辻堂の郊外、草っ原にポツンと立つ平屋の慎しやかな自宅の佇まい。シーンの美しさはもちろん、心情を投射した画の力強さは言葉を費やしても表現することは難しいが、そこを噛み締めたい気もする。ただ、そうしたともすると脚本よりも映像重視、逆に言えばホンが弱いと見做されやすい木下作品の特徴が、当時は黒澤明のライバルと言われた映画監督にも関わらず、完璧主義黒澤とは違い現在ではめっきり語られるこのと少なくなってしまった理由のひとつかもしれない。(他の理由としてはは時代性を帯びすぎた作品群と、先ほど少し申し上げた特に後年の作品に顕著な「自我」の肥大化による現実世界との乖離。)
佐田啓二は奇しくもタクシードライバー役。この映画の中では碓氷峠(もちろん今のバイパスではなく急カーブの連続する旧道。現地ロケのようだ)で事故に遭うも一命を取り留めるが、実際にはこの5年後、自動車事故で不慮の死を遂げる。なんともやるせない。
(星3.5)

