『地獄』(1999年)

映画 地獄(1999) 日本映画
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「地獄では目には目と歯」石井輝男監督の到達点は怪作にして快作
波乱の女優 石井監督憧れの前田道子 威風堂々、怪優の片鱗? 北村有起哉

1999年石井プロ 監督 石井輝男
 「人生について思い悩む18歳の少女・リカ。ある時、公園で出会った老婆によって地獄へ連れていかれた。地獄の恐ろしさを人間たちに伝えろと老婆は言う。リカがそこで見たものは、現世で大罪を犯した亡者が地獄の責め苦を受ける、阿鼻叫喚の修羅場だった。」「連続幼女殺害事件、オウム事件、毒入りカレー事件など、実際に起きた事件を生々しく再現。その上で犯人を裁いていく」(U-NEXT HP)
 1979年の「暴力戦士」以来、14年ぶりの劇場公開作となった「ゲンセンカン主人」から「無頼平野」「ねじ式」とつげ義春原作の映画化が続いたが、本作は石井監督にとっては「実録三億円事件 時効成立」(1975 東映)以来の実録路線。それも今回は前作の「ねじ式」同様自主制作に近い体制。フィルムは経費削減16ミリで粗く、演者も無名な人たちが多く演技も不安定、ためにする脚本、セットも必要最低限で簡素。逆にそれにより、ドキュメンタリー的なリアリティ、密室劇的な緊張感を醸成し、比類なき突飛な本作が誕生したたのも確か。それがこの映画の魅力。
 石井監督、「実録三億円事件」はお仕着せの企画でさほど乗り気でなかったようだ。しかし、本作は恐らくいた堪れず企画、制作されたと推測する。内容はこの時期頻発した凶悪事件、特に「オウム事件」に時間と熱量を注いでいる。それも彼らがシャバで行った犯罪よりも、その「サティアン」の中での教祖と呼ばれた男の所業に監督の関心は集中している。教祖は女色を好んだ。その所業を事細かく描写する。監督が東映時代に量産し一時代を築いたフィクションであるはずの「異常性愛路線」が現実化してしまった。その贖罪の意味も多少あったかもしれないが、それ以上に本作では「洗脳」されて立場の弱くなった者を支配しようとする教祖という権力者に対する嫌悪感から監督の生来の正義感に火がついたのだ。なので教祖やこの宗教自体を徹底的に貶める。ゴキブリの這う環境でまぐわい、最後失禁しその匂いで警察に捕まるという情けない教祖の描写等々。
 教祖と幹部はその後地獄で裁かれるが、「 シャバで罪が免れても地獄では免れない。シャバでは目には目と言うが、地獄では目には目と歯。」と閻魔大王に言わしめる。地獄では倍返し。この映画制作の時点では彼らの判決は下っていなので監督の妄想世界での地獄での罰。それくらいの強い憤怒。
 地獄の場面はかつての中川信夫監督の「地獄」を彷彿させる。新東宝末期の予算がない中での苦肉の照明を駆使した地獄のセットとその責苦もおどろおどろしいものであった。本作も同様だが最低限のセットで、むしろその拷問の仕方に焦点を当てている。中川作品よりリアルで残酷度が増している。かなり強烈な死の淵の「痛み」が伝わる演出。
 閻魔大王役の前田道子はかつての新東宝のスターだが、新東宝時代の石井監督とはすれ違い。映画出演は30数年振りとは思えない堂々とした貫禄の演技で本作の柱だ。新東宝を理不尽な理由で辞めざるを得なかったとされる前田道子に石井監督は「地獄では目には目と歯」と言わせるとは。その事情を知っていると凄みが増す台詞。他の配役は正直なところ予算の中での寄せ集め感が強い。その中である種異彩を放つのが、現在ドラマ等で大活躍のまだ新人、無名時代の北村有起哉。一際緊迫感のある真に迫った演技を見せる。血は争えぬ。(父は文学座の北村和夫。)主役の女子大生役、ピンク映画出身という佐藤美樹は体当たりでキュートさは印象に残るがもう少し演技、台詞回しがこなれていれば、とも。
 自主映画という予算、時間、スタッフ等々の制約の中で完成に漕ぎつけた70代の石井監督の胆力に敬服する。地帯(ライン)シリーズ、ギャングシリーズ、網走番外地、異常性愛路線と名作、話題作、怪作を連発し時代を築いてきた監督がそこまでしなければ本編を撮れないということが「異常事態」であるという現実に、日本映画界はもっと早く気づくべきであったと今更ながら思う。
(星4.0)

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